「部員募集」の記事一覧 [ 4/27 ]

REPORT & TOPICS

2025.04.21「選手として、指導者として」平成3(1991)年卒 上田 恭平

私は中3で膳所の優勝を見て、膳所へ行こうと決めました。

その頃は人数が多くなかなか公式戦には出られませんでした。高2の冬の新人戦で優勝、高3の春季総体で優勝、花園を目指していましたが、秋は準決勝で負けました。

そのことが喉に刺さった小骨のようにずっとひっかかったままでした。

大学でもラクビーを続けました。教員になり、髙田先生からお声掛けいただき、母校の監督となりました。初めて指導するのが母校ということで、責任を勝手に感じていました。

まず考えたのは、母校のラクビー班を必ず次の指導者にチームをパスしなければならない、ということでした。

赴任した前々年は優勝し、2度目の花園へ出場していました。前年は引き分けで両校優勝、抽選の結果花園へは出られませんでしたが、2年連続優勝していました。

どんな強豪チームなのかと思っていましたが、現実は退部したいという生徒が数名いて、素人の1年生を入れなければ単独で春季総体に出場できないという状況でした。

しかし、その時のラクビー好きな3年生と〇〇ほどかわいい2年生とよちよち歩きの1年生を目の前にして、自分が指導者として彼らと一緒にスタートを切る決意を固めました。

特にこの3年生は、春季総体は合同チームで初戦敗退だったのに、秋の花園予選までがんばってくれました。彼ら3年生が秋までやってくれたお陰で、その3年後に花園に出られたと思っています。

何度となく言っていますが、本当にそう思います。強くて調子が良い時なら誰でもやれますが、弱くてしんどいチーム状況なのに踏ん張ってくれた彼らには感謝しかありません。

3年後に花園に出た時は、優秀な選手がそろっていました。勝ててうれしいのもありましたが、自分の高3の時の引っ掛かりがやっと取れたというのが正直なところでした。

その後にも優秀な選手がたくさんいて、それなりの戦績を残すことができました。

しかし、指導者が自分でなかったら、もっと知識や経験があったら、もっと勝てたかもしれないと思うようになりました。

選手を伸ばすのも指導者ならば、選手の足を引っ張るのも指導者です。このことは今も変わらず考えるところです。選手に対して指導者は学び続ける責任があると考えています。

この度、マスターズで高月組や貝増組のメンバーと一緒に花園に立てたことはとても幸せな出来事でした。

選手としては花園に立てなかったけれど、数十年を経て、当時の仲間や教え子達と花園に立てるとは想像もしていなかっただけにとてもうれしい出来事でした。

しんどい時に踏ん張れるのが膳所高校ラクビー班の特性だと思います。長い人生においてほんの数年ですが、ここでの時間が濃密な経験をさせてくれるからこそ身に付く特性だと思います。

ぜひたくさんの人に経験してほしいです。

新入生の皆さん、膳所高校ラグビー班に入ろう!

 

転載:野口(1985卒)

2025.04.20 7人制全国大会予選準決勝戦

準決勝戦の相手校は光泉カトリック高校でした。

膳所0-50光泉カトリック

粘り強くディフェンスできたシーンもありましたが、ディフェンディングチャンピオンの流石のスピードラグビーに完封されました。

応援してくださった皆様、ありがとうございました。次戦は3位決定戦、相手校は比叡山高校です。

2025.04.20「非日常を共にした仲間は財産」昭和54(1979)年卒 中西 大輔

滋賀県庁ラグビー部で前帝京大ラグビー部監督の岩出雅之氏と共にプレー

「ラグビー部」ってどんなイメージですか?

ワールドカップはじめ、テレビで見るラグビー選手は筋骨隆々のゴリマッチョばかりなので、なんとなく単細胞なマッチョ集団をイメージする人が多いんじゃないかな。

ところがですよ。身長161cm体重50kg、これが1976年(大昔ですね)、私が高校1年でラグビー部に入部したときのサイズです。女子の平均に近いサイズで、筋肉はほぼ皆無、しかも鈍足でした。

なぜそんな私がラグビーを始めたのかというと、中3の秋、テレビで大学ラグビーを見て「おぉっ!こんなスポーツがあるのかっ!」「何だこれは!あんなことして痛くないのか!」などと強烈に衝撃を受け、「これは絶対に自分で試してみたい!」と思い、たまたま新聞で膳所高校が県大会で優勝している記事を見つけ、そこから「膳所でラグビーをする」ことを目標に入学しました。

そして晴れて入部したのですが、入部した日に人生最大の過ちだったことに気づきました。「な、なんちゅうしんどいねん」「めっちゃ痛いやん」「あかんでこれは怪我するで」と・・・・・・。しかし時すでに遅し。「辞める」とも言い出せないまま、ただただ必死で練習について行くだけの日が続きました。

そして何か月か経って、ふと気づいたのです。「俺、結構やれてるんちゃうん?」「そんなに痛くなくなってるし」と。なんとか練習にもついていけるようになり、それなりにポジションも決まって、どんどんラグビーが面白くなっていきました。わかりやすいモチベーションの変化です。

何より、練習が終わったあと、仲間達と京阪膳所本町駅前の森商店(←今はありませんが)や美富士食堂で食べたり飲んだりしながらワイワイ話す時間が楽しくて仕方ありませんでした。

私たちのチームは、私だけでなくほとんどのメンバーが「針金」のような体型で、3年生になってもFWの平均体重が65kgと超軽量チームだったのですが、高校日本代表候補にもなったキャプテン船橋を中心によくまとまったチームで、3年生の春の県大会で優勝しました。その前の冬の大会では決勝で惜しくも負けて悔しい思いをしていましたし、当時、3年生は春の大会で引退して受験勉強に専念するのが慣例でしたから、最後に優勝できたことは格別な成功体験でした。こんな時間を仲間と共有できたことはホントに幸せだったなと思います。

その成功体験に味を占め、私はその後、30歳過ぎまで社会人でもラグビーを続け、その間に県社会人選抜チームのキャプテンを任されたりもしました。高校入学時161cm51kgだったサイズは、社会人では176cm70kgになっていましたが、それでもラグビー選手としては細くて軽い選手でした。
また、不思議な縁で、その社会人チームには高校時代のチームメイトが3人いて、同じチームで30歳過ぎまでプレーを続けることになりました。今、還暦を過ぎた年齢ですが、この3人だけでなく、当時のチームメイトとは今も当時のニックネームで呼び合う関係が続いています。

ラグビーは、日常生活ではまずあり得ない経験をします。赤の他人(チームメイトとは言え)のために、自分が怪我をするかもしれない、カラダを張ってあんなに痛いことをすることは日常生活の中ではまずありません。フツーは自分のためでもしたくもない(笑)。

だからこそ、その時間・経験を共有した仲間の信頼関係は格別ですし、また所属チームに関係なく、その同じ経験を知っている者同士は不思議な共感でつながりが生まれます。社会人になって仕事上のつきあいでも「ラグビーやってました」「え? 私もです」で、信頼関係づくりのハードルがグッと下がる経験を何度もしました。

もうひとつ、ラグビーは走りながら考えるスポーツです。試合中は常に動きながら、同じく動いている味方の立ち位置、敵の立ち位置、ボールの位置などを観察し、状況判断して味方とコミュニケーションし、その動き方を変えながらボールを運びます。監督やコーチの指示・命令で動くのではなく、試合中は常に自分たちで考え、判断してゲームメイクする、この習慣づけは社会人になってからも大いに役に立ちます。

そんな「非日常」を日常の中に生かす経験値が、高校の3年間、誰でも教室の外で得られる「オイシイ」部活がラグビー部です。辞めるのはいつでも辞められるけれど、始めなければ辞められもしません。ぜひやってみましょうね。

知らんけど。

 

転載:野口(1985卒)

loading